再び寛容さについて

寛容とは示すほうも示されるほうもそれ相応の心がけを持って初めて成り立つものであろう。しかし示される寛容さが、弱気の表れと取られるとどうなるか。邪な人物はこれ幸いと、攻撃に転じるのではないか?それを受け入れるだけの度量がある政治家であればいいが、今の自民党には贔屓目にみてもいないのではないか?今より対立が激しかった55年体制のもとでの与野党のせめぎあいでは、一種馴れ合いともとられかねない攻防もあったが、そこにはイデオロギーを超えた日本の政治家がいたからできたことであろう。しかし時代は変わり、そんな政治家もいなくなり、逆に変な馴れ合いから脱却するチャンスかもしれない。変に妥協に妥協を重ね、戦車を特殊車両、ミサイルを特別飛翔体と言い繕う必要もなく、苦しい解釈で憲法を読み替える必要もない。普通の国に生まれ変わる良い機会であろう。対韓国にしても、甘えを許さない背筋を伸ばした凛とした対応がのぞましい。

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