因果な

因果な商売とは様々な不都合にあった場合、あきらめ、達観した己の現状を改めて実感したとき、ため息とともに吐き出す言葉。歌舞伎役者の配偶者が不幸にもなくなり、マスコミ各種で大々的に報じられている。他人の不幸はあげつらうものではなく、そっと見守るものと思っている。しかし、喪主たる役者はその務めもままならず、興行の場にいる。昔からの慣習で芸人、役者は◯◯の死に目に会えずと、周囲も暗黙裏に認めている。しかしこの風潮、なんとかならないのか?人間、様々な出会い、別れがあるが、身近な人間の死こそ二度とない最後の別れではないか。この機会にと生涯一度の興行を楽しみのお客も多勢いるだろう、しかし複雑な思いを胸に演ずる役者をみて、客の心中はどうだろう。◯◯の死にも関わらず、舞台を務めたと世間は誉めそやすだろうが。芸人、役者も人間である。ま、此度は旅立つ間際に立ち会えたと自らを慰めるしかないのか。

印象操作

政治活動でかなり意識的に使うのがあっち系。まともな討論では太刀打ちできないと判ると、本筋を外れたこの手を使うのが特徴。政治其の物に関心が薄い層には、これが効果がある。廃れたとはいえ、一定の野党支持者には応えられない脳内ホルモン湧出の元。その興奮状態を見聞した野党諸君は、これはいけると勘違いし、手段が目的にすり替わっていく。そして併合していく間に、自らの脳内のお花畑全開となり、ますます高揚し、冷めたその他多勢から離れていく。はっと気がついた常識ある野党政治家が声を挙げたところで、遮眼帯をかけた党執行部には聞こえない、見えない。そこで離党。しかし離党してもその遣る瀬無い気持ちを引きづったまま、惨めである。いっそ懺悔し無所属から与党に鞍替えしたほうが後ろめたさは残るにしろ、政治家の道をあゆめるのではないか?人格さえまともならば。共産党から転向し、その道の第一人者になった例はいくらでもある。本人の気構えさえしっかりしていれば、世の中捨てたものではない。