その場凌ぎ

くだらない問題で防衛大臣が辞任した。この人の場合、過去の様々な言動もその一因だが、公的には防衛庁内部の日誌に関し、見た、見ない、言った、言わないの水掛け論、そもそも内閣が一つの政策を掲げ、法案の制定に動く場合、様々な事態を想定していると思うが、野党は何とかメンツを潰し、内閣へ打撃を与えようと手ぐすね引いて待ち構えている。野党の反対論を見ていると、真面目に政策論争をする気は全く無い。国益を考え妥協すべきところは妥協し、責任の一端を担おうなんて頭の片隅にもない。ただただ反対。そのため法案の真髄を論争することは避け、枝葉のことを平和、人命をお題目に万が一のことがあたかも即、現実になるかのような質問ばかり。内閣も内閣、法案成立のため、万が一のことさえ否定し、法案成立に励む。そのため、妥協に妥協を重ね、終わってみれば、あちこち縛りにかかった不完全な法案となる。毅然としたものが無い、駄々っ子のわがままをその場で抑えたいためだけのだらしの無い親同然。強引と言われようとも、内在する危険因子をみとめ、毅然とした態度で野党に向かえないものか。法案に伴う法律の適用を受ける現場はたまったものでは無い。現場の人間は馬鹿ではない。臨機応変に対処する能力は十分過ぎるくらい持っている。緊急事態に対応して法律の趣旨に反した場合、体を張って守る気概を持った政治家はいないものか。

煮豚

今やラーメンの具として時に別料金を取るまでになったチャーシューだがほとんどの物は本来の叉焼ではなく、煮豚になっていることは知る人は知っている。字面のごとく豚肉の塊を焼き、水あめを含む様々な調味料で味付けをしたものである。作る手間暇を考えれば、煮豚に軍配が上がるだろうし、ラーメンのスープに浮かべれば味はごまかせる。しかし、煮ることで肉のうま味はすべて逃げてしまい、そこそこ残った脂でそれらしく見せられるが、パサパサ感はいかんともしがたい。デパートの惣菜売り場で見かけるものの、本来の叉焼は安くはない。本物が欲しければ、横浜の中華街が確かであろう。

聞く耳持たぬ輩には

ダメなものはダメと鼻から拒否する連中に果たして説得は可能なんだろうか。野党は説明が足りないと言うだけ、与党は丁寧に説明を心がけると言うが、見え透いた嘘。要は相手が主張を完全に引っ込めないといつまでも説明が足りないと言い続けるだけで平行線のまま。政治は妥協というが、長年の妥協の産物が憲法解釈であり、骨抜きに近い法案のかずかず。この悪弊を断ち切るには国会の質疑で質問だけの野党、答弁だけの与党をやめ、与党にも質問をみとめ、形だけの党首討論を日常的な論戦の場にすべき。論戦で負けたら、いくらメディアが頑張ったところで、これだけ情報の溢れた今、国民は落ち着くところで落ち着くのでは。北朝鮮の場合はどうすべきか。北朝鮮は体制の維持が最大の眼目であるからアメリカ側の条件付き妥協しか解決策はないだろう。それがいやなら、ゲンコツを喰らわすしかないかな。

今こそ、公共投資

飛行機から、下の日本列島を見ると、海辺近くまで、山並みが迫り、ほんのお情けで海沿いに人が住んでいるのがよくわかる。山並みといっても全部が全部急峻な山でもなく、高低差はあるにしろ平野部もあり、そこには無数の河川がくねくねと走り、日本は水が豊かなんだと実感する。しかしこの水が曲者で、大昔から治水対策がこの日本民族に課せられた最大の重荷でもある。降り注ぐ雨は手入れされた土壌の山肌に吸収され、樹々が水を蓄え少しずつ下流へ流す自然の循環があるが、最近の降雨はこんな自然の循環をものともしない。地球環境が激変していると識者は言うが、何億年の長さで地球の移り変わりをみると、やぶ蚊に刺された痒みくらいなものだろう。人間はその細腕で自然の災害に立ち向かってきたが、このところ負け越しである。

公共投資、この言葉が悪の代名詞に使われ始めたのはいつ頃の事だろう。公共投資、土木事業、政治家、利権 このセットで国民におもねり、『コンクリートから人へ』と綺麗事を並べた政党があったが、どこへいったやら。国民に受けの良い「公共投資◯割削減」で既存の地方の土木建築会社はすべからく淘汰され、東京オリンピックだ、除染対策だと人不足を招いた。そこに今回の九州地区の水害。ボランティアと言うが、彼らの技量では後片付けがせいぜい。復興の一助ではあるが、再建のチカラには程遠い。植林、間伐材の処理、河川の修復、治水、治山対策は国家百年の計であり、脆弱な日本の国土は絶え間ない手入れが必要。利権を貪る輩にはそれなりの対策が必要だが、国土保全の司令塔の確立が急務ではないか?縦割り行政の弊害は耳にたこができるほど聞き飽きているが、山から河川、海と連なる一連の行政を司る組織が今更ではあるが必要である。土建屋と侮るなかれ、彼らが機能しない限り、国土は荒れ放題となる。韓半島の禿山、大陸の砂漠化をみれば、一目瞭然。いくら社会保障対策が充実されても、住む家がこれでは。今ある利権から切り離される輩からはもっともらしい反発(いわゆる利権政治の復活、自然破壊)がマスコミが便乗し起こるだろうが、志を持った政治家の登場が待ち遠しい。

そんな場合じゃないだろう

国会閉幕中にも関わらず、7月10日 委員会を開く。そうだよなあ、九州水害、北朝鮮弾道弾、日本各地の主要な港で発見された毒を持った蟻、やる事、一杯あるし、国会開会中は碌な審議もしなかったし、せめて国民へ言い訳にもなるし政治をヤッテル振りでもしなけりゃ、歳費をもらうのも気が引けるというもの。エッ、そうじゃないの?都議会選挙の自民党、民進党の総括?それも違うの?カケ?カケ?加計?なにそれ、先日までダラダラやったんじゃないの?◯鹿みたい。そんなことしてるから、都民のせっかくの自民党に対する厭悪感を自分達のものにできなかったんだが、判ってないよなあ。ま、好きにやってくれ、気がすむまで自己満足に浸ってくれ。

因果な

因果な商売とは様々な不都合にあった場合、あきらめ、達観した己の現状を改めて実感したとき、ため息とともに吐き出す言葉。歌舞伎役者の配偶者が不幸にもなくなり、マスコミ各種で大々的に報じられている。他人の不幸はあげつらうものではなく、そっと見守るものと思っている。しかし、喪主たる役者はその務めもままならず、興行の場にいる。昔からの慣習で芸人、役者は◯◯の死に目に会えずと、周囲も暗黙裏に認めている。しかしこの風潮、なんとかならないのか?人間、様々な出会い、別れがあるが、身近な人間の死こそ二度とない最後の別れではないか。この機会にと生涯一度の興行を楽しみのお客も多勢いるだろう、しかし複雑な思いを胸に演ずる役者をみて、客の心中はどうだろう。◯◯の死にも関わらず、舞台を務めたと世間は誉めそやすだろうが。芸人、役者も人間である。ま、此度は旅立つ間際に立ち会えたと自らを慰めるしかないのか。

印象操作

政治活動でかなり意識的に使うのがあっち系。まともな討論では太刀打ちできないと判ると、本筋を外れたこの手を使うのが特徴。政治其の物に関心が薄い層には、これが効果がある。廃れたとはいえ、一定の野党支持者には応えられない脳内ホルモン湧出の元。その興奮状態を見聞した野党諸君は、これはいけると勘違いし、手段が目的にすり替わっていく。そして併合していく間に、自らの脳内のお花畑全開となり、ますます高揚し、冷めたその他多勢から離れていく。はっと気がついた常識ある野党政治家が声を挙げたところで、遮眼帯をかけた党執行部には聞こえない、見えない。そこで離党。しかし離党してもその遣る瀬無い気持ちを引きづったまま、惨めである。いっそ懺悔し無所属から与党に鞍替えしたほうが後ろめたさは残るにしろ、政治家の道をあゆめるのではないか?人格さえまともならば。共産党から転向し、その道の第一人者になった例はいくらでもある。本人の気構えさえしっかりしていれば、世の中捨てたものではない。